僕は味覚バカだと言われて今日まで生きてきた。
友人とご飯を食べていると「お前味覚バカだよな」とよく言われる。ちょっと意味がよく分からなくて無視を決め込んでいたのだけどどうやら味覚オンチではなく僕は味覚バカらしい。
確かに改めて考えてみると、僕はどんなところでご飯を食べても、「美味い!」ばかりを連発してマズイという感想が少ないことに気づいた。もちろん嫌いな食べ物がないわけじゃない。僕は無類のコーン嫌いでアレルギーでもないはずなのにコーンだけはホント全然ダメ。もう無理、吐いちゃう。って感じになるのだが、それは食材ベースでの好き嫌いの話であって、こと味に関しては薄味だろうが濃い味だろうがマズイという感覚には至らないのだ。
正確に言えば、「美味いと思うものが多いからマズイという感覚が少ない」だろうか。
今まで僕はざっくり年間1000回程度の食事をし、全部合わせると人生で2万回以上は食事をしているわけだけど「まっず、食えない」となったのは恐らく3回未満程度な気がする。気がするだけで数えてないのでもしかしたら0回かもしれないし、15,000回かもしれないけれど。
そんな人生を歩んでいるものだから「味覚バカって幸せだよな」と信じられない悪口を言われるわけだけど、合わせ技で
「お前と結婚する人はきっと幸せだろうな」
ともよく言われる。
なるほど確かに何を作ってもうまいうまいと言ってもらえたらきっと楽だろうし、「まずいぞバカヤロー」つって星一徹よろしくちゃぶ台をひっくり返されるよりは精神的な疲労は少ないだろうから将来僕の奥さんは幸せになる可能性が高いのかもしれない。
だがその一方でこの状況が本当に良いことなのかと考えると少しばかり不安になる。あまりに肯定的な意見ばかりだったら未来の奥さんたる人も「ほんとにこの人はちゃんと料理を味わっているだろうか」と思うかもしれないし、しっかりと改善点を評することは成長にも繋がるので、それを否定する"うまいうまいの連発"は彼女を温室に閉じ込める行為に等しいのである。
それが結婚生活を送る上でどういうデメリットを生むかまだよく分かっていないけど、ネガティブに考えると家庭が崩壊しちゃうくらいのことは起こりうると思っている。
子供がお弁当を持つ年頃になり学校にお弁当を持っていく
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温室育ちの奥さんは料理の腕が上達してなくて弁当がマズイ
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子供は友達から「お前の弁当クソまず」といじめられる
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母に弁当のまずさを訴え、母たる奥さんは自分の料理の腕が全く伸びていないことに気付き嘆く
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僕は相も変わらず、何食っても満面の笑みで「うまい!」とかいっている
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心に大きなキズを負った奥さんは離婚届に判を押したまま、子供連れて「探さないでください」的なメッセージを残してどっか行っちゃう
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THE END
的な未来が容易に想像できるのだ。うむ、これはとってもマズイな。料理はうまいけどマズイな。
まぁそんなわけで今の味覚のまま生きていったら恐らく絶望しかないので、これからは目の前に出されたものを無我夢中で食うのではなく、一旦深呼吸して冷静に美味いかマズイかを考えてみたいと思う。
未来の幸せな家庭を守るために。奥さんの素敵な笑顔を見るために。
ただ一番のボトルネックは奥さんになってくれそうな人がいないということ。これが多分、一番マズイ。